喫茶プリヤ 第五章 二話~不可思議な転落

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写真はイメージです。

 

康介には誰にも明かしていない秘密の場所があった。

古ぼけて鄙びた感じの喫茶店、プリヤ。

クハーヤ大学病院の最寄駅の近くにあり、康介は出勤のたびに気になっていて、ある日思い切って入ってみてからすっかりお気に入りの場所になっていた。

 

「こんにちはー」

「あら、海堂さん。いらっしゃいませ」

「いつものでね」

「はい、かしこまりました」

 

康介はいつも座る席に着き、スマホを取り出してSNSを開いた。

天才外科医と持て囃される康介は、SNSでもよく取り上げられていてちょっとした有名人になっていた。

くだらない噂話やつまらない批判的なことを書く者もいたが、大多数は康介を称賛し褒めちぎってくれていた。

SNSだけではなくテレビの番組に出たことで話題にもなり、イケメンの天才外科医と絶賛され康介は満足していた。

 

「お待たせしました」

「あ、ありがとう」

 

康介がスマホをチェックしているところへ、ウエイトレスの空子がプリヤオリジナルブレンドを持ってきてくれた。

プリヤは古くてあまり流行ってはいなかったが、メニューにあるものは何でも美味しく康介はたまに素朴な味わいのナポリタンなどを頼むこともあった。

オリジナルブレンドの芳醇な香り、深い味わい、まろやかな口当たり。

そのどれも、康介はすっかり気に入っていた。

 

「空子、もうすぐ学会なんだ。俺、論文を発表するんだよ。だから毎日毎日、時間が足りなくてさ。論文を書きながらでも手術はこなさなきゃならないし、外来で患者を診る日もあるしさ」

「まあ、お忙しいんですね。大学病院の先生って、どなたもそうなんですよね?」

「まあな。俺は将来は教授選にも出ようと思うから、論文はしっかり書かなきゃならないんだ。でも、ここに来れば寛げるし気分転換にもなって、仕事にも身が入るね」

「それは良かったです。ゆっくりしていって下さいね」

「ありがとう」

 

康介は空子がカウンターに戻っていくと、またSNSのチェックを始めた。

やっぱり自分は多くの人間に称賛されている。

康介は自尊心が満たされ、満足感に浸った。

 

それから1時間ほど経ち、そろそろ帰ろうかと思っているところで、空子が声をかけてくれた。

 

「海堂さん、コーヒー、お代わりはいかがですか?」

「お、いいねえ。一杯もらおうかな」

「かしこまりました」

 

空子はカウンターに戻るとマスターに注文を伝え、数分してできあがったコーヒーを持ってきてくれた。

 

「はい、どうぞ。プリヤスペシャブレンドです。マスターの奢りですよ」

スペシャブレンドか。旨そうだな」

 

スペシャブレンド

オリジナルブレンドとどう違うのか。

康介は少し興味をそそられた。

 

「あ、旨い!」

 

一口飲んでみると、今まで飲んだことのないような味わいが口の中いっぱいに広がった。

 

「これ、すごく旨いよ!マスター、ごちそうさまです!」

 

寡黙なマスターは黙って頷き、少し笑っただけだったが十分に気持ちは伝わってきた。

 

「さて、コーヒーのお代わりもいただいたし、そろそろ帰ろうかな」

 

今日もやっぱり自分以外に客は入ってこなかった。

来るたびにいつも不思議だが、プリヤはどうやって店を維持しているのか?

マスターがよほどの金持ちで道楽で店をやっているのか。

しかし野暮なことは聞くまい。

康介は会計を済ませるとプリヤを出て家路についた。

 

帰宅した康介はシャワーを浴びて、下ごしらえしておいたビーフストロガノフを味付けし夕食を食べ始めた。

自分は料理も上手いデキる男。

背の高いイケメンで天才外科医と呼ばれ、実際に仕事もできる。

誰からも称賛され高収入。

将来も嘱望され前途洋洋。

康介は夕食を食べながら夜のニュース番組を眺めていた。

公園に定住するホームレスを都が排除しようとしたために、ホームレスやその支援団体と都の職員との間で衝突が起こり怪我人も出たというニュース。

そういえば自分が勤めるクハーヤ大学病院の救急外来に、交通事故に遭ったホームレスが運ばれてきたことがあった。

ホームレスは病院で死亡が確認されたがどこの誰ともわからず、身元確認に時間がかかったと聞いていた。

身元を証明するものすら持たないホームレス。

定まった住所もなく、当然仕事にも就いていない。

ただの人生の落伍者ではないか。

自分は養護施設の出身だが努力して今の地位を掴んだのだ。

ホームレスは努力が足りないのではないか。

康介はそんなことを考えながらビーフストロガノフを優雅に味わっていた。

 

食事を終えると康介は夜遅くの情報番組を見ながら、頭の中で明日の手術のシミュレーションをまとめ、そのうちに眠くなった。

明日の手術も何時間かかるかわからない難儀な手術。

それでも自分なら必ず成功させることができるはず。

康介はそんなことを考えながら眠りに就いた。

 

朝がやってきた。

いつもより日差しが強いのか、瞼を閉じていてもどこか眩しい。

それに、周りの空気が冷たい。

高層のタワーマンションの上の方の階に住む康介だったが、すきま風が吹き込んでくるような感覚で目が覚めた。

 

「あれ???」

 

起き上がると康介は段ボールらしき厚紙の上に横たわっているのに気づいた。

寝る時に掛けていた高級羽毛布団はなく、汚れた毛布一枚で康介は横になっていた。

いつもの自分の部屋ではないのか、周囲も喧しい。

康介は起き上がってみた。

 

「ええ!?」

 

立ち上がると周りには段ボールで作られたバリケードのようなものがズラリと並んでいた。

いったい、何なのか。

康介は自分の周りを囲んでいるバリケードのような段ボールを跨いで外側に出た。

 

「え?都の行政センターか?」

 

頭上を見上げるとそこには都の行政センターの高い建物がそびえ立っていた。

バリケードのような段ボールから這い出してくる男たちがいたが、どう見てもホームレスにしか見えない。

ここは自分の部屋のはずだが、どうやら違うらしい。

夢なのか?

康介は枕元に置いたはずのスマホを見ようとしたが、なくなっていた。

ズラリと並んだ段ボールのバリケードからは、ホームレスが一人、また一人出てきてどこかへ出かけて行く者、何か会話を交わす者、各自思い思いに振る舞っていた。

ここは高くそびえる都の行政センターの足元なのか。

最寄駅から都の行政センターまでの間、マドゥーフ通りと呼ばれている道路に沿ってホームレスが生活する溜まり場がある。

康介はそう聞いたことがあった。

ここが噂に聞いたことがあるホームレスの溜まり場なのか。

だとしたら、なぜ自分がそんなところにいるのか。

何かの間違いに違いない。

康介は段ボールが並ぶホームレスだらけの空間を離れた。

 

何が起こったのか?

自分の部屋にいるはずがなぜかホームレスの溜まり場にいた康介。

康介は自分が住んでいるはずの高級タワーマンションを目指した。

しかし、擦れ違う人間は誰もが何か胡散臭いものを見るような目付きで康介をじろじろと眺め回していた。

自分は何かおかしいのか。

そんなに冷たい視線を向けられるような格好をしているのか。

康介はふと通りかかったブティックの前の大きなショーウインドーを覗き込んでみた。

 

「えええ!!」

 

ショーウインドーに映った自分の姿を見た康介は思わず声をあげた。

なんと、自分がホームレスになっているではないか。

ぼろぼろの洋服、何日間も風呂に入っていないような黒ずんだ肌と汚れ切った髪に無精ひげ。

いつも身に着けている高級時計も仕立てのいいスーツもない。

しかも顔も別人になっている。

康介がショーウインドーに手をつけてみると、ガラスに映ったホームレスと手と手が重なった。

ガラスに映るのは紛れもない自分なのだ。

一体全体、何が起こったのか。

昨夜、いつも通り眠りに就いたではないか。

眠っている間に別人になり、ホームレスとして暮らす身になってしまったのか。

そうだとすれば、なぜなのか。

今日の手術はどうなるのか。

康介は勤務先のクハーヤ大学病院に向かった。

 

クハーヤ大学病院まで歩いてきた康介は、病院裏手の職員通用口の辺りで職員の出入りを見ていたが、なんとしばらくすると自分がこちらに向かって歩いて来るではないか。

いつも通りに通用口を通ろうとする”自分”に康介は近づいた。

 

「おい、お前。お前、誰だ?」

「え?どなたですか?」

「どなたって…俺が本物だぞ!お前は誰だ?」

「何言ってんだ、あんた?おーい、警備員さーん」

 

もう一人の自分に絡んだ康介だったが、通用口を守る警備員に取り押さえられた。

 

「おい、放せよ!俺が本物の海堂康介だぞ!こいつは偽物だ!」

「あんたねえ、何を訳のわからないこと言ってるの?」

「警備員さん、最近いるんですよね。病院の対応に不満があって押しかけてくる困った患者さんが。仕事があるんで、いいですか?」

「ええ、あまり手こずらせるようだと警察呼びますよ。海堂先生は気にしないでください」

 

偽物なのか、もう一人の自分は堂々と病院内に入って行ってしまった。

康介は警備員に抑えられ、それを見ていることしかできなかった。

もう一人の自分がいて、しかも、そちらの方が”本物”。

康介は自分の身に起きたことが全く理解できなかった。