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写真はイメージです。
美和がスタイリストの見習いになって一年が経った。
美和の夢は一人前のスタイリストになること。
ファッションが好きでいつかは夢をかなえるために毎日忙しい日々を送っていた。
「ちょっとお、笹本さん。今日はその衣装じゃないでしょう!」
「すみません。間違えました」
「何年この仕事やってんのよ!」
撮影現場でモデルに着せる衣装を間違えて持ってきてしまった。
先輩スタイリストに叱られ、美和はひたすら頭を下げた。
「しょうがないわねえ。じゃあ、そっちの青い方の衣装でやりましょうか」
「はい、わかりました」
しかし、よく考えたら事前の打ち合わせでは緑色の衣装で撮影しようと決まっていたはずではないか。
美和は確かに緑色の衣装を用意していた。
よくあることなのだ。
先輩スタイリストやモデルたちが撮影本番の直前になって、衣装が違うと言ってくる。
一種の意地悪、見習いイビリだった。
しかし、口答えができる訳でもなく美和はペコペコ謝りながら撮影の準備を進めた。
撮影が始まっても、モデルは美和にばかり文句をつけては困らせる。
そのたびに美和はモデルの機嫌を損ねないように言う通りにするしかなかった。
「お疲れさまでしたー」
撮影が終わると片付けは美和の仕事だったが、撮影に使った小道具などはそのまま放置され、まとめるのに一苦労だった。
それも美和をターゲットにしたモデルの意地悪で、先輩スタイリストも見て見ぬふりをしていた。
「笹本さん、早く片付けてよね。ほら、あたしの私服取ってよ」
「え、どれですか?」
「そっちに掛けてあるワンピースよ」
「これですか?」
「そうそう……あら!なあに、これ?!」
撮影用の衣装を脱いだモデルの香菜は私服に着替えようとして大声をあげた。
「なあに、これ!!ズタズタじゃない!!」
香菜の私服はズタズタに引き裂かれていた。
「こんなの、着て帰れないわよ!!」
香菜は大袈裟に騒いだ。
「笹本さん、あなたのせいよ。ちゃんと管理してなかったから、こういうことになるのよ!!」
香菜はカンカンに怒っていたが、美和は全く身に覚えがなかった。
おそらく、これも意地悪だろう。
香菜の自作自演で私服が切り裂かれ、それを美和のせいにして責め立てる。
他の現場でも同じようなことが以前にあった。
それでも美和はひたすら謝るしかなかった。
スタイリスト志望の見習いは掃いて捨てるほどいる。
気に入らなければ、もう来なくてよいと言われても仕方なかった。
とにかくクビにならないよう、我慢してしがみつくしかない。
美和はそれでもスタイリストとして一人前になりたい一心だった。
その日も、さんざん香菜に嫌みを言われ、平謝りして仕事は終わった。
美和はメイク道具や小道具の入った大きなカバンを背負って家路についた。
駅まで行く途中にある、一軒の古びた喫茶店が美和は気になっていた。
少し前に再開発を巡る訴訟が起こった場所。
美和はニュースなどで見て知っていたが、結局、再開発の話は今はどうなっているのか。
再開発を主導していた大物議員の秘書が別件で逮捕されていたが、その後は報道もされなくなっていた。
こんな風情のある良さそうな雰囲気がある店は潰れないで欲しい。
今日こそは入ってみよう。
美和はそう考えた。
一度、入ってみたいと思っていたが、全く流行っている様子がない。
入ってみるにはかなりの勇気が必要だった。
そうして何度か前を通り過ぎるだけだったが、美和は思い切ってその喫茶店に入ってみることにした。
その日も香菜と同じ現場でネチネチと嫌みを言われ、いじめに近い目に遭わされ落ち込んでいた。
どことなくレトロな雰囲気の喫茶店。
こんな落ち込んだ気分の日は、懐かしい雰囲気の喫茶店が癒してくれないだろうか。
美和はそんなことを考えながら店の扉を開けた。
喫茶プリヤ。
扉を開けると美和が想像していた通り、古ぼけてはいるが落ち着けそうな空間が広がっていた。
「いらっしゃいませ」
美和が適当に席につくと、メイド服を着たウェイトレスが水の入ったコップを持ってきてくれた。
何を注文しようか、美和はメニュー表を見てみた。
どこの喫茶店にもあるような、ブレンドコーヒーやフレッシュジュース、フードメニューはナポリタンやサンドウィッチもあった。
「すみませーん」
美和が呼ぶとウェイトレスはすぐに来てくれた。
「あのう、ホットケーキとオレンジジュースください」
「かしこまりました」
ウェイトレスは愛想よく注文を受けてくれた。
テレビもない静かな店内。
美和は注文したものができあがるまでスマホでSNSのチェックを始めたが、カウンターの前に立っているウェイトレスの方をチラチラ見ていた。
なんと美しいのだろう。
仕事柄、モデルや女優を見ることが多いが、プリヤのウェイトレスはその誰よりも輝いていた。
透き通るような色白の肌、茶色がかった髪と瞳、メイド服を着ていてもはっきりわかるメリハリのあるスタイル。
こんな流行らない喫茶店で一日中ウェイトレスをさせておくにはもったいない。
美和がそんなことを考えていると、注文したホットケーキとオレンジジュースが運ばれてきた。
「お待ちどおさまでした」
ウェイトレスはやはり愛想よく熱々のホットケーキを持ってきてくれた。
仕事の帰りで空腹の美和はメープルシロップをたっぷりかけてホットケーキを食した。
「おいしい!!」
ホットケーキを一口食べて、美和は思わず声が出た。
故郷にいる母親が作ってくれていたような懐かしい味がした。
オレンジジュースも果汁の味が濃く、しっかりした旨味があった。
このプリヤという喫茶店、外観も店内の様子も古ぼけた感じがしていたが、それが却って気持ちが落ち着く。
メニューは今まで味わったものよりずっと美味で正に隠れた名店とも言えると美和は感じた。
また来たい。
プリヤに来たのは初めてだったが、美和はすっかり虜になった。
それからというもの、美和は毎日のようにプリヤに顔を出すようになった。
「こんばんはー」
美和は自分の家に帰ってくるように、仕事の帰りにプリヤに寄るようになっていた。
「いらっしゃいませ。笹本さん、今日もお仕事お疲れさまでした」
「今日は何にしよっかなあ。やっぱり、ナポリタンかな」
「かしこまりました」
美和の一番のお気に入りはナポリタンスパゲティになっていた。
「お待たせしました」
「わあ、今日も美味しそう」
「ねえ、空子。空子も座んなさいよ」
「ええ、どうかしましたか?」
「可愛いから、ずっと見てたいの」
「まあ、笹本さんったら」
美和は向かいに座った空子を相手にナポリタンを食べながらお喋りを始めた。
「空子って、ホント、可愛いよね」
「そうですか?」
「うん。すっごく可愛い。って言うか綺麗だよね。言われない?」
「いいえ、私はそんな……」
「空子、可愛いから女優にでもなればいいのに」
「私がですか?とんでもないです」
ウェイトレスの空子ははにかむように笑った。
「絶対、可愛いって。あたしね、スタイリストの見習いなんかをやってると、いろんなモデルや女優を間近で見るんだけど、みんな、不摂生してるのか、照明やメイクで誤魔化してるの。もっとひどいのは、できあがった写真を修整したりとか。でも、空子なら素のままでもイケると思うのよね」
「いいえ、私はそんな」
「うーん。空子、どこかの事務所に写真や履歴書とか送ってみたら?」
「いえ、私はこのお店が好きなんです」
「空子がそれでいいなら、いいんだけどね。でも、もったいないなあ。あたしなんか、ブスだしデブだし、いつも仕事場ではバカにされてるの」
「笹本さん、そんなことないですよ。笹本さんには笹本さんの良さがあるんですから」
「空子って、性格もいいよね」
「そうでしょうか?」
「絶対そう!あたしが仕事で会うモデルや女優は、みーんな嫌な奴なの。ちょっと綺麗だからって調子に乗ってるのよね。空子はすごく素敵!」
美和はあまりしつこく言うと嫌われそうな気がしてそれ以上は触れなかったが、それにしても空子はプリヤのウェイトレスだけで食べていけているのだろうか。
正直、美和がプリヤにいる間、他の客が入ってくることはなかった。
店は流行っているとは言い難い。
マスターもそうだが、生活はどうしているのだろう。
プリヤには謎が多かった。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
プリヤは自分だけの癒しの空間。
美和はそれでよいと思っていた。