本編の前にご案内です。
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こちらは私の拙い日記、私の本音です。
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ここからが本編です。
写真はイメージです。
末吉は78歳。
妻に先立たれてから息子夫婦と同居している。
しかし、同居生活は良いことばかりでもない。
どちらかというと、息子の嫁には気を遣い、孫とは話が合わず、息子は仕事が忙しくて末吉に構う余裕はなく、末吉は家に帰っても何の楽しみもなかった。
朝食を終えると、息子とその嫁は仕事に、孫は学校へ向かう。
末吉は一人、家に残され、することもなくテレビを見るだけの生活。
そこで、末吉は最近は天気のいい日には街の大きな公園、緑川公園に来てはベンチに座り行き交う人を見ながらぼんやり過ごすことが増えていた。
公園の中を行き交う若者のファッションを見ても、何が良いのかさっぱりわからない。
最新の洒落たファッションも、末吉には奇妙キテレツな格好にしか見えなかった。
世の中の流れから完全に取り残されてしまっている。
自分はいつからそんな追いやられたような存在になったのか。
末吉にも若い頃はあった。
バリバリ仕事をして家族のために働き、世の中を支えているという自負があった。
それが、歳をとったというだけで隅に追いやられ、この世界から早く退場することを暗に迫られているような気もしていた。
そんな末吉だったが、自宅から緑川公園までの間にある喫茶店が気になっていた。
喫茶店の名前はプリヤ。
サンスクリット語で「愛」を意味するプリヤだろうか?
学生の頃、少しだけ齧ったインド哲学に関わるサンスクリット語。
もうあの頃には戻れないのだ。
末吉はそんなことを考えながら、今日もプリヤの前を通りかかった。
今日こそ入ってみようか。
昔ながらの構えのプリヤに、末吉は以前から惹かれていた。
「いらっしゃいませー」
末吉が思い切ってドアを押して開けると、元気な声が迎えてくれた。
若い、まだ16、7歳かと思うような、ウェイトレスがプリヤの中にいた。
店の中には他に客はいない。
末吉が毎日のように前を通っても客が入って行くのを見たことがなく、プリヤには客は入っていなかった。
ウェイトレスは眩しいくらいの美少女で、席に座った末吉にコップに入った水を持ってきてくれた。
「あ、コーヒーちょうだい」
「かしこまりました」
ウェイトレスは笑顔で応えてくれた。
カウンターの向こうには寡黙な感じの中年の男がいて、ウェイトレスが末吉から取った注文を伝えるとコーヒー豆を挽くことから始めていた。
「お待たせしました」
ウェイトレスはやはり笑顔で淹れたてのコーヒーを持ってきてくれた。
末吉はそっと口をつけたが、次の瞬間、あまりの美味しさに末吉は声をあげた。
「う、旨い!!」
ウェイトレスとウエイターの中年の男にも聞こえたのか、こっちを見てにこにこ笑っている。
こんな老人が声をあげて喜ぶとは、なんだか気恥ずかしい。
末吉はコーヒーをイッキ飲みするように飲み干すと、そそくさとカウンターで会計を済ませてプリヤを出た。
とはいえ、末吉はまたゆっくり来てみたかった。
若い頃に通った喫茶店と同じ匂いがプリヤにはあった。
また来よう。
末吉はそんなことを考えながら家路についた。
「ねえ、お義父さんの施設のこと、ちゃんと考えてるんでしょうね?!」
末吉が夕食を済ませ風呂に入ろうと廊下を歩き、リビングの前まで来ると息子の嫁の牧子の声が聞こえてきた。
末吉は高齢者施設に入る方向で、家族と話し合いを進めていた。
本当は施設には入りたくない。
住み慣れた家にいたい。
今のところ、介護が必要な状態ではない。
末吉はそう考えていたが、牧子はそう考えてはいなかった。
「考えてるさ。だけど、父さんはまだ元気じゃないか。施設に入れなくても…」
「ちょっと、何言ってるのよ。施設だって空きがある時に入っておかないと、すぐに埋まっちゃうのよ」
「まあ、そうだけどな」
「今のうちに、まだまだ元気なうちに、施設に空きがあるうちに行ってもらわないと、あたしたちが困るのよ。ねえ、みのりだってそうでしょう?!」
牧子は末吉の孫娘、みのりにも同意を求めた。
「そーよねえ。おじいちゃん、臭いし。言ってることもイミフだし。なんか、やることなすこと古臭いのよねー」
孫娘のみのりの声も聞こえてきた。
この家にはもう自分の居場所はないのか。
施設に追いやられ、社会の中にも居場所がないのか。
末吉は立ち聞きしていることに気づかれないよう、そっと風呂場に向かった。
そんな末吉だったが、プリヤに通い詰めるようになっていた。
家族を仕事や学校に送り出すと、末吉はプリヤに顔を出すようになっていた。
「いらっしゃいませー。あら、末吉さん、今日も早いんですね」
「うん。みんな、勤めや学校に行ってしまって、何もすることがないしね」
末吉はプリヤのウェイトレス、空子とマスターとすっかり顔なじみになっていた。
「末吉さん、いつものでいいですよね」
「そうだね」
末吉は淹れたてのコーヒーをすすりながら、店内に置かれている週刊誌や新聞に目を通しゆっくり流れる時間を贅沢に過ごしていた。
末吉は週刊誌や新聞から最近の世の中のことを知ろうとはするものの、よくわからないことが増えてきていた。
人間のように思考し、感情もあり、見た目も人間そっくりのアンドロイドと共生する社会が実現しつつある。
名うての一流企業・フィロス電機では既に試作品の段階まで開発を進めていて、もうすぐ実用化される。
こういう話を見聞きしても、末吉はそれがどういうものなのか、よくわからなかった。
「なあ、空子。アンドロイドがどうしたこうした、意味わかるか?わしらみたいな年寄りには、何のことかさっぱりわからんのだ」
末吉は空子に教えを乞うた。
「そうですね。スーリヤ国では急激に高齢化が進んでいます。介護が必要な人が増えて、介護士が不足します。それを補う意味でアンドロイドが開発されるのはありだと思います。それに、高齢者を支える若い世代は減っていますから、アンドロイドが人間と同じように働いて納税することで福祉を支えることになると思います」
「なるほど、空子は賢いな。でも、わしら年寄りが世の中を圧迫しているみたいで、なんだか申し訳ないよ。ピンピンコロリで逝ければいいんだがなあ」
末吉は自分も同居している家族に邪魔者扱いされ、施設に入れられそうなのだと空子に打ち明けた。
「まあ、そうだったんですか」
「でも、仕方がないのかもな。年寄りが若い連中の邪魔になっちゃ駄目だと思うんだ。息子の嫁が、いい顔をしないんだよ。早く厄介払いしたいらしい。最近は孫も寄りつかないし」
「でも、末吉さんは施設には行きたくないんですよね?」
「本音はそうだな。しかし、いつまでも若い時みたいに我儘は通せないしな。もういっそのこと、死にたいくらいだよ」
「そうなんですね…。ちょっと待ってて下さい」
空子はカウンターの向こうにいるマスターに何か話し始めた。
マスターは空子の話を聞き終わると何度か頷き、コーヒー豆を挽き始めた。
「末吉さん、これ、どうぞ」
「ん?頼んでないよ?」
「いいんです、マスターからです。どうぞ」
「そうかい?じゃあ、せっかくだから頂くよ」
末吉は運ばれてきたコーヒーに口をつけた。
「旨い!!lこれは、今まで飲んだなかでも、一番旨いな!!」
「うふふ、気に入って頂けて嬉しいです。プリヤスペシャルブレンドですよ」
「ほおお」
末吉は一段と芳しいプリヤスペシャルを味わいつつも、ぐいっと飲み干した。
「いやあ、旨いねえ」
「ええ、このスペシャルブレンドを飲んだ人は、みんなそう言いますよ」
「そうかあ。でも、わしは今度はまたいつ来れるかなあ」
「あら、末吉さん、何かご予定でも?」
「うん、明日ね、これから入居する施設の一日体験に行くんだ。と言っても、息子がもう契約を済ませたから、施設に入るのは決まりなんだけどね」
末吉は寂しそうに答えた。
「まあ、そうだったんですか。でも、同じくらいのお年の方々と一緒も楽しいかも」
「空子にこう言ってもらえると、本当にそうなりそうだな」
末吉はそうは言ったが、やはり寂しそうだった。
「そろそろ帰ろうかな。家族の誰かが帰ってくる時に、わしがいないと心配するからね。と言うか、文句を言われるからね」
勤めや学校に出かけた家族より末吉は先に帰らなければならない。
末吉のことを心配しているというのは、家族の建前。
本音は近所の目を気にして、ボケた末吉が徘徊していると思われたくない。
ただ、それだけのことだった。
「空子、一日体験入所の後は、正式な入居の準備とかあるんだよ。また、今度はいつ会えるかなあ」
末吉はやはり寂しさを隠せず、名残惜しそうにプリヤを出て行った。