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こちらは私の拙い日記、私の本音です。
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写真はイメージです。
喫茶店・プリヤでスペシャルブレンドコーヒーを飲んで以来、秀彦は全てにおいて絶好調だった。
空子やマスターに一言お礼を言いたい。
そう思ってはいたが、秀彦は多忙を極めていた。
会社では技術開発部の技術者としてスカイゾーンプロジェクトに参加し、スーパーコンピューター・スカイゾーンの開発に着手していた。
仕事はスイスイ進み、スカイゾーンの基盤が完成しつつあった。
仕事が面白くなってきた秀彦だったが、大物代議士の娘、花村由梨子と懇ろな間柄になり、今日花村家に挨拶に行くことになっていた。
由梨子に選んでもらった高級スーツに袖を通し、秀彦はアパートの部屋を出た。
由梨子はアパートまで車で迎えに来ると言ってくれた。
アパートの共同玄関前で待つことにしよう。
秀彦は鏡を見直すと、部屋を出た。
「あ!もう来てたのかい!」
秀彦がアパートを出ると、黒塗りの高級車が停まっていてその脇に由梨子が立っていた。
「うふふ。どんなところに住んでるのかと思って、早めに来てみたの」
「恥ずかしいよ。こんなオンボロアパート」
「まあ、いいじゃない。庶民派でアピールできそうね。乗って。行きましょう」
「う、うん」
秀彦が車に乗り込むと、降りてきた運転手がドアを閉めてくれた。
ツキが回ってきて何をやっても上手くいく。
今の自分は順風満帆なうえに、更に追い風を受けているのだ。
とはいえ、テレビで何度か見かけたことがあるだけの大物代議士の元へ向かっているとは。
秀彦は緊張して鼓動が早くなった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
後ろの席で隣に座っている由梨子が、秀彦の緊張を解そうとそっと手を握ってくれた。
いや、手を握られた方が却って緊張するではないか。
「だ、だ、大丈夫だよ」
秀彦は緊張のあまり冷や汗をかいていた。
「も~お、強がっちゃって。可愛いんだから。大丈夫よ、お父様は強面だけど根は優しい人なのよ」
「そ、そうなんだ…」
強面だが優しい。
秀彦はすぐには信じられなかった。
由梨子の父、花村権蔵は決してクリーンなイメージではなかった。
決定的な証拠こそないものの、数々の疑惑が報じられたり、政治的な手腕も剛腕として知られていた。
閣僚経験もあり、先々は総理大臣の座も狙えると噂が絶えなかった。
将来の総理大臣候補の娘婿になるのであれば、もしや自分も。
秀彦は想像力を働かせた。
「ね、お父様が総理の座を狙ってるのは知ってるわよね?」
「う、うん」
「うふふ、秀彦さんはその後継者なのよ。頑張ってね」
「えええ!僕が総理大臣?!!」
「秀彦さんなら庶民の味方アピールでイケそうよ。好感度も高そうだし」
「えええ…」
ツキが回ってくるのは嬉しいが、一国の総理の座につくことになるかも知れないとは。
今までは派遣社員として卯建が上がらず冷や飯を食わされてきたが、政界に入り権力を握れば自分をバカにしていた者たちを見返すことができる。
それどころではない、総理大臣になれば国の舵取りを任されることになるのだ。
秀彦は由梨子の父、花村権蔵に会うと思うと緊張で震えてきそうだったが、今の自分の前には成功という大海原が洋々と開けているような気もしてきた。
「あ、着いたわよ」
「へええ」
噂には聞いていたが、花村邸は大邸宅だった。
秀彦と由梨子が乗った車が門に近付くと自動的に開き、車はスイスイ中に進んだ。
「さ、降りましょう」
運転手がドアを開けてくれると、由梨子はササッと車を降りた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいまー」
由梨子は出迎えてくれたお手伝いらしき中年の女に返事を返した。
「お志茂さん、この人が佐藤秀彦さんよ」
「まあ、初めまして。松本でございます」
お手伝いらしき女性までが上品なオーラを漂わせている。
やはり政界の大物、普通ではない。
秀彦は少し恐いような気もしてきた。
大物代議士ともなれば、清廉潔白なだけではないだろう。
もしかしたら、とんでもなくダーティーな部分が隠れているのではないか。
娘婿候補にされたとはいえ、そんな世界で自分はやっていけるのだろうか。
「秀彦さん、こっちよ」
由梨子はお手伝いのお志茂の後について屋敷の中に入っていき、秀彦ははぐれないように慌てて着いて行った。
男性誌の漫画本で見たような、絵に描いたような大邸宅。
漫画の世界では政界のドンは大邸宅に住み、そこにはきれいに整えられた広い庭がある。
長い廊下を歩いて、大邸宅の主が待つ部屋へ向かう。
こんな漫画に出てくるような光景が秀彦の目の前に広がっていた。
「こちらでございます」
「お志茂さん、ありがとう。秀彦さん、こっちよ」
漫画の世界では障子を開けると畳の部屋に屋敷の主がいることになっていたが、現実は普通の洋間に応接セットがあり、奥の方に由梨子の父、花村権蔵が悠々と座っていた。
「花村です。初めまして」
「え、あ、はいい!初めまして!あ、あの、佐藤秀彦です!!」
秀彦は緊張のあまり、口が回らなくなりそうだったが、由梨子に促されて応接セットのソファーに座った。
「君が佐藤くんだね」
「は、あ、はい!そうです!!」
「由梨子からいろいろ聞いているよ」
「え、あ、あの、はい!!」
間近で見る花村権蔵は意外とソフトな印象だった。
テレビのニュースで取り上げられる時は剛腕な面ばかりが取り上げられていたが、秀彦は意外に柔らかい印象を受けた。
秀彦はそれでも緊張のあまり、聞かれたことに短い返事をして答えるだけで精いっぱいだった。
お手伝いの志茂が紅茶とケーキを持ってきてくれたが、秀彦はそれに手をつける余裕はなかった。
「……という訳なんだ。うちは由梨子が一人娘だし、私の後継者になってくれる若者を探していたんだが。どうだ?次の選挙に出ないか?」
「ええ!!選挙ですか?!!」
「うん。憲民党内で次の選挙に出ない、つまり引退する議員がいるんだが、その後釜で出ないか。もちろん、資金やら票集めやら、その他諸々、私が全面的にバックアップする」
「はあああ」
秀彦はあまりにも話がトントン拍子に進むので、本当に夢でも見ているのではないかと頬をつねりたくなった。
「あの、とてもありがたいお話ですが」
「ん、何かな?」
「僕は今はサラリーマンをしています。大事なプロジェクトを抱えているんです。急に辞めたら迷惑がかからないか。それが心配です」
秀彦が一番にやりたいことは、スカイゾーンの開発だった。
「ああ、スカイゾーンの開発だろう」
「え、ご存知なんですか?!」
「知っているとも。フィロス電機の二階堂会長は大学時代からの友人だ」
「そうだったんですか」
「スカイゾーンは、もう完成したのではないかね。あれは、基盤だけを作っておけば後は自分の意思で動いていく。技術者がやることは、滅多にないだろうが何かのトラブルが起きた時にスカイゾーンを補助してやることだけ。そういうコンピュータープログラムだと聞いているが」
「ええ、仰る通りです」
確かに、秀彦が開発に関わっていたスカイゾーンは自ら思考し、自らを進化させていく力を持っていた。
「そうだろう。これで心置きなく私の後継者になってくれるね」
「え、あ。あの、僕なんかに務まるでしょうか」
「もちろん。私も元はサラリーマンだった。ちょうど引退する議員がいて、当時勤めていた会社と憲民党の関わりの中で選挙に出ることになり。その後はずっとこの世界でやってきた」
すっかり気後れしている秀彦を安心させるかのように権蔵は言い切った。
「私も息子ができたと思えば嬉しいよ。党からも全面的に支援するよう約束しよう」
「あ、ありがとうございます」
とうとう”ありがとうございます”と言ってしまった。
もう後戻りはできない。