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写真はイメージです。
大手の電機メーカー、フィロス電機の総務部に派遣されていた。
秀彦はアルバイトをしながら苦学して大学を卒業したものの空前の不況の中、非正規の派遣社員の身分に甘んじていた。
仕事は単調でアシスタント的なものしか与えられず、遣り甲斐などはなく、秀彦は日々に退屈していた。
「おい!佐藤!!さっき頼んだコピー、どうなってんんだよ?!」
総務部の正社員、小林に怒鳴りつけられた秀彦は慌てて小林のデスク前に立って詫びた。
「すみません。まだです」
「何やってんだよ!急いでやれって言っただろ!会議、始まっちまうだろうが!」
「すみません。今すぐやります」
「早くしろよな、お前、ホンッとにのろまだな」
「すみません」
要領の悪い秀彦はいつもこんな調子だった。
そんな秀彦を安い時給でこき使うだけこき使う。
フィロス電機の社員たちはに口こそ出さなかったが、態度に出ていた。
「おい、佐藤。お前みたいなのろまなボケ野郎はさ、派遣でもなけりゃ、うちの会社で働けないような無能なクズなんだぜ。いつでもクビは切れるんだ。わかってんのかよ」
小林は嫌みをたらたら言いながら、コピー作業を急かせた。
「すみませんでした」
「それ、会議室まで持ってこいよ」
「はい」
指示された秀彦は分厚いコピーの束を抱えて小林の後についてエレベーターに乗り、会議室に向かった。
「ほら、早く配れよ」
「はい、すみません」
会議室に連れてこられた秀彦は、コピーした資料を急いで机の上に並べ始めた。
小林も会議の準備係のはずだが、秀彦に指示するだけでポケットからスマホを出しニヤニヤ笑いながらサボっていた。
「おい、終わったか?」
「はい」
「じゃあ、次は広報部に行って、これ、もらってこい」
小林は別のポケットからメモ用紙を出して秀彦に渡すと黙って会議室を出て行った。
秀彦は仕方なく言われたまま広報部に向かった。
「すみませーん。総務ですが」
秀彦が広報部にやってくると、何やら賑やかだった。
「あのー、すみませーん」
「お、何だ?総務の佐藤くんじゃないか」
「あのう、この資料を取りに来たんですが」
「ああ、それな。今、担当者が来客中なんだ。後で来てくれ」
「はあ……」
広報部全体が何かざわついているようだった。
「今さ、担当の内山の奴、佐伯まゆちゃんが来てるからさ」
「え、そうなんですか?!」
「ほら、見てみろよ」
秀彦が示された方を見ると、透明なパーテーションで仕切られた来客スペースにトップアイドルの佐伯まゆがいた。
佐伯まゆはフィロス電機のイメージキャラクターを務めていて、この日も次のCMの企画の打ち合わせでフィロス電機を訪れていた。
「佐藤くんは派遣さんだろ。こんな時でもなけりゃ、まゆちゃんに会えないだろう」
「え、はい。そうですね……」
「可愛いよなあ。見惚れちゃうよ。なあ、そうだろ」
「そうですね」
テレビをあまり見ない秀彦でも佐伯まゆの名前くらいは知っていたが、本当のところはあまり興味がないというのが本音だった。
それでも、広報部の社員たちは秀彦には好意的だった。
総務部では安い時給でこき使われ、どことなくバカにされた扱いを受けていたが、安定した一流企業で働けるならと秀彦は我慢していた。
一日の勤務が終われば早々と家路につく秀彦。
その日もタイムカードを押すと、さっさと退社した。
毎日毎日、代わり映えのしない日々。
駅へと向かう秀彦はこのままで良いとは思わなかったが、かと言って今の状況を変える方法も見つからなかった。
そんな秀彦だったが、駅まで行く途中にある古い喫茶店が気になっていた。
大きな窓があるが、客が入っているのを見たことがなかった。
喫茶プリヤ。
店の入り口のドアの脇に小さな看板が出ているだけで、そこだけが時間が止まっているような雰囲気が漂っていた。
以前から気にはなっていたものの、入ってみる勇気もなく通り過ぎるだけの秀彦だったが、その日、思い切って入ってみようかと思い立った。
「いらっしゃいませー」
流行っていない店に一人で入るのは少しの勇気が必要。
秀彦はその勇気を出して喫茶プリヤに入ってみた。
「いらっしゃいませ」
思った通り、店の中には客はなく、ひっそりした空気が流れていた。
メイド服を着たウェイトレスが水の入ったコップを持ってきてテーブルの上に置いてくれた。
「あ、あのう、ブレンドコーヒーをください」
「かしこまりました」
秀彦がコーヒーを注文すると、ウェイトレスは愛想よく頷いた。
ウェイトレスはまだ若く、16、7歳に見えた。
髪の長さはショートボブ。
輝くような銀髪で、瞳の色は青みがかっていた。
外国人の血でも入っているのだろうか、かなりの美少女で秀彦はなんとなくウェイトレスの動きを目で追っていた。
店の中にいるのは美少女ウェイトレスと蝶ネクタイを付けた年配の男で、年配の男はカウンターの向こうでグラスを磨いていた。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーです」
「あ、ありがとう」
美少女ウェイトレスはにこやかにコーヒーを運んできてくれた。
酒が飲めない秀彦は仕事の疲れを感じながら、運ばれてきたコーヒーをすすった。
「う、旨い!!」
今ままで飲んだことないような美味に秀彦は思わず声が出た。
コクがありながら口当たりが良く、酸味と苦みのバランスが秀逸だった。
こんなに美味しいコーヒーを出すのに、店は流行っている様子がなく、店内に客は秀彦一人だった。
店の中にはテレビなどはなく、有線放送なのか懐メロが静かに流れていた。
秀彦の両親世代が聴いていたような曲が流れ、テーブルや椅子もレトロな感じで、店の中だけがタイムトリップしたような雰囲気が流れていた。
好き好きはあるだろうが、自分にとってはなんだかい易い。
秀彦はそんなことを考えてすっかり寛いでいた。
「ごちそうさまでした」
小一時間ほども経ったろうか、コーヒーを飲み干した秀彦は会計を済ませようと店の出入り口の辺りに置かれたレジの前に立った。
「また、どうぞ」
美少女ウェイトレスは最後まで愛想が良く、店を出る秀彦に微笑みかけてくれた。
確かにまた来たくなるような落ち着いた雰囲気がある。
店内には懐かしいBGMが流れているが、単なる懐メロ喫茶でもない。
秀彦にとっては好みの店の雰囲気だったが、秀彦が店に入ってから出るまで他に客は入ってこなかった。
以前から前を通っても流行っている様子もなく、秀彦にとってはどうして潰れないのか不思議という思いの方が強かった。
何とも上手く言えないが、とにかく魅力に溢れている。
秀彦はその次の日も、喫茶プリヤを訪れた。
「いらっしゃいませ」
美少女ウェイトレスは昨日と変わらぬ笑顔で秀彦を迎えてくれた。
今日は何かフードメニューを頼んでみようか。
一人暮らしの秀彦は真っ直ぐ家に帰っても味気ない一人の食卓だった。
オリジナルなのか、あれほど美味しいコーヒーを出してくれるのなら、フードメニューも期待できる。
秀彦はそんなことを期待しながら、喫茶店の定番メニュー、ナポリタンを注文した。
「かしこまりました」
メイド服の美少女ウェイトレスは、注文を取ると年配のマスターに伝えていた。
マスターは寡黙な男で、美少女ウェイトレスから注文を聞くと黙って頷き、黙々と調理を始めた。
秀彦はナポリタンが出来上がるまで、店内にある雑誌に目を通していた。
テレビがない店で注文した品が出てくるまで時間を潰すには、スマホを見るか雑誌を読むか。
秀彦は滅多に読まない雑誌を手に取っていた。
雑誌はマガジンラックに立てかけられていて、他にも新聞もあった。
そういえば、新聞などいつから読んでいないのだろう。
ニュースならスマホでネットニュースを見て済ませている。
秀彦が幼い頃に病死した父親が、よく新聞を読んでいた。
秀彦はレトロな喫茶店の中で、昔の記憶を手繰り寄せていた。
「お待たせしました」
美少女ウェイトレスが笑顔でできたてホヤホヤのナポリタンを運んできてくれた。
「わああ、旨そうだなあ」
じゅうじゅうとまだ音を立てる熱々のナポリタンを目の前にして、秀彦は思わず声をあげた。
「旨い!!!」
昔、祖母が作ってくれたような、懐かしの味。
絶妙なケチャップの利かせ方が秀彦の胃袋を掴んだ。
あまりの美味しさに秀彦は我を忘れ、一心不乱にナポリタンを平らげた。
絶対に明日もプリヤに来る。
メニューには他にもミートソースなどパスタのメニューがある。
全て食べてみたい。
パスタと言うよりはスパゲティー。
秀彦はすっかりプリヤに惚れ込んだ。
こんなに美味しい店なのに、他に客が来ないのはなぜなのか。
フィロス電機の近くにあり駅までの道の途中にあるのだから、立地条件は悪くないというのに。
しかし、秀彦はプリヤを自分だけの秘密の隠れ家にしたいような気もしていた。
そんなこともあって、会社では誰にもプリヤの存在を教えたりはしなかった。
しがない派遣の身ではいつ契約の更新が打ち切られるかわからなかったが、秀彦はプリヤに通うようになって仕事に打ち込むようになれた。
プリヤに来て旨い料理やコーヒーを楽しみたい。
そして、美少女ウェイトレスに会いたい。
プリヤに来れば舌だけではなく、心も癒される。
秀彦にとってプリヤは生活の一部以上の存在になっていた。
「こんばんは」
いつの間にか秀彦はプリヤに入って来る時、挨拶するようになっていた。
自分の家に一人で帰るよりも、ウェイトレスの空子が優しく迎えてくれるプリヤはもはやもう一つの家のようだった。
「あら、佐藤さん。今日もお疲れ様でした。いつものでいいですね」
「いや、どうしようかな」
秀彦のいちばんのお気に入りメニューはナポリタンだった。
週に三、四日はナポリタンを注文し舌鼓を打っていた。
しかし、その日は秀彦はすぐには注文をしなかった。
「まあ、佐藤さん、どうかしました?」
ウェイトレスの空子は、秀彦がどことなく元気がないのに気付いた。
「うん、実はさ」
秀彦は来月いっぱいでフィロス電機への派遣の打ち切りが決まったと意気消沈していた。
次の派遣先はまだ決まっていなかったが、派遣先によってはプリヤに来れなくなるかも知れない。
秀彦はそう空子に説明した。
「そうだったんですか」
「うん。今、不景気だろ。僕らみたいな派遣は真っ先に切られるんだ」
「それは困りましたね」
「そうなんだよなあ」
秀彦は派遣期間が満了すること以外にも、フィロス電機では派遣社員だからということだけで露骨に差別されたり、いじめにも近いような扱いを受けていること、その他の悩み事を空子に打ち明けた。
「佐藤さんも、いろいろあるんですね」
「うん、どうしてこうなんだろうなあ。奨学金まで借りて大学を出たのに就職先もロクになくて、いつかは正社員にと思って取り敢えず派遣になったけど、チャンスなんて全然ないし」
秀彦は社会の不条理に憤って思いを空子にぶつけた。
「ごめんよ、空子。空子が悪いんじゃないのに」
「でも、佐藤さんの気持ち、わかります。確かにこの国では政治が良くありません」
「あーあ、次の派遣先が見つからなかったら、僕は田舎に帰るしかないのかなあ」
自分にだって夢はある。
秀彦の夢は高度なアンドロイドを開発する技師になることだった。
例えば福祉の分野。
介護が必要になった高齢者や体が不自由な障害者を支えるような、人間の温かい心があるようなアンドロイドを開発し、少しでも手助けができたら。
それが秀彦の夢だった。
「佐藤さん、志が高いんですね。ちょっと待ってて下さいね」
空子はカウンターの向こうにいるマスターに何かを伝えているようだった。
秀彦がその様子を見ていると、空子は一杯のコーヒーをお盆に乗せて持ってきてくれた。
「佐藤さん、これ、どうぞ」
「え、注文してないけど」
「飲んでもいいのかい?」
「はい、どうぞ」
空子は満面の笑みでプリヤスペシャルブレンドをテーブルの上に置いた。
今まで飲んだどんなコーヒーよりも芳しい香りが立ち、その香りだけで秀彦は心を掴まれるような感覚を感じた。
「旨い!すごく旨いよ!」
秀彦は一口すすっただけで、今まで味わったことがないような美味を感じた。
コクがあるのにしつこくなく、酸味と苦みが絶妙なバランスで混じり合い、香りも深呼吸して嗅ぎたいくらいの芳しいものだった。
「空子、このコーヒーはすごいよ!」
「うふふ、お気に召してもらえたら嬉しいです」
「ここのマスターは無口だけど、料理の腕前はピカイチだよね。流石、そのマスターが淹れるコーヒーだね」
秀彦は一瞬でも派遣の契約期間満了のことを忘れられそうだった。
「佐藤さん、プリヤスペシャル、気に入って頂けて嬉しいです」
空子は秀彦以上に満足げで静かに微笑んでいた。